マルクス・アウレリウス『自省録』

夜、布団の中で読んでいる。理解できないところは深追いせずにただ読む。数ページ進んだら自然と瞼が重くなる。穏やかな気持ちで眠りに入れます。

聞くところによると、どうやら企業の経営者に愛読者が多いらしい。まあ書いたのがそもそも皇帝だからね、わからんでもない。

節度ある行動をせよ。感情に振り回されるな。お前はそんなに偉くないぞ。

これが人々の啓蒙のために書かれたものだったら、「そりゃ正論でございますがね」と毒のひとつも吐きたくなるが、膨大な量の覚書はあくまで彼が自分を戒めるためだった。まさか後世まで残って世界中で読まれるなんて、皇帝様でも気がつくめえよ。本人にしてみたら黒歴史かもしれないのにね。

そんな事を考えながら読む。

「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。(第六章)」

誰かに不愉快な事を言われたかされたか、あるいはもっと大きな問題で、国同士の争いに関する事か。ともかく、ちくしょう仕返ししてやりてえ、と思った自分の気持ちを抑えようと、ぎりぎり歯噛みしながら書いたのかもしれない。

十二章からなるこの文章には、自身への励まし、戒めだけでなく、時には露わな感情も綴られる。五賢帝最後の一人と讃えられた彼でさえ、これだけの悩みや自己嫌悪と対峙していたのだな。

自制的であれ。なす事を見極めてそれをなせ。現代のわたしたちにも十分響く言葉である。

さてそれでは今わたしのなすべき事、買い出しへ行ってまいります。

 

桜が散り始めたと思ったら

幹線道路沿いのツツジだかサツキだかがもう満開。街路樹のハナミズキ(多分)も、おや新芽がと思ったのがつい先日だというのに昨日通ったら花が咲いててびっくりだ。

年末に容赦なく刈り込まれたイチョウの木も小さな葉が出てきたし、こないだまでただの枯れ木にしかみえなかったアジサイは、気が付けば葉がわさわさ伸びている。

植物のエネルギーはすごいな。

建物が取り壊された後の空き地が、あっという間に草ぼうぼう生い茂る小さな野原に早変わりだ。そういう場所はひと昔前なら格好の遊び場だったけれど、今はただ管理地の看板が建っているだけで子供の姿はない。

大阪在住の知人が以前、「東京はあちこちに緑があっていいな」と言っていた。こっちからすると、淀川沿いの桜とか大阪城公園とか緑が沢山あるじゃないかと思っていたのだが、もしかしたら整備された公園以外の緑の事だったのだろうか。

わたしの住むのは東京の外れに近い場末感漂う場所だが、めっきり増えたマンションの間に今でも古い家が点在している。たいがいはその辺の地主の屋敷で、ぐるりと巡らされた高い塀の内には、大きな木が何本もうっそりと繁っているのをよく見る。昔は屋敷森だったのかもしれない。

以前そんなお屋敷の前を通りかかったら、マイクロバスが一台止まっていた。お葬式かしらと思ってよく見ると、フロントガラスの上方に「○○講御一行様」とある。どうやらその家は講元さんらしい。富士山か大山か、これから出かけるところだったのだろう。立派な白塀と門構えの家だった。塀の向うに立派な桜の木が見えた。

それから数年も経たないうちに、塀も建物も取り壊され桜は切られ、今はアパートと駐車場になっている。

手縫いでちくちくやっているエプロン製作。

肩ひもができて、ポケットを本体につけおわりました。あとは胸当て部分を作って全体を縫い合わせるだけである。

遅々とした進行状態なのは、休日の夜にしか作業しないからだ。荷物の梱包は得意でも細かい手仕事は苦手なわたしとしては、これでも随分健闘していると思う。

Eテレの『ソーイング・ビー』に刺激され、裁縫への意欲が高まってきたものの、わたしには大きなハードルがある。型紙を見ても立体的なイメージが全くつかめないのだ。それがまるで難解な化学式でもあるかのように、まず目が拒否するのである。

美術の授業も苦手だったしなあ。鑑賞は好きなんだけど自分で作るのは。

立体的な視点を持つというのは、もしかすると物事のとらえ方にもつながるかもしれない。平面的思考という言葉があるかわからないけれど、文章を読んであれこれ考察するのは好きだ。けれど視覚と思考をリンクさせたり、イメージをふくらませたりするのは苦手、というよりも、多分できてない。

服選びでいつも悩むのも、鏡に映った自分の姿を客観的に分析できていないからではないか。雑誌やネットの記事で得た情報が頭にあっても、具体的なイメージを投影できないから。

そうだったのか(多分だけど)!

けれどともかくエプロン作りは進行中だ。ちゃんと完成したら前より自信がつくはずだ。

少なくとも「この次は何を作ろうか」と考えられるようにはなっている。一歩先には踏み出せているぞ。

 

猫が鳴きながら

歩き回っている。ほっておくと次第に声が大きくなり、最後は絶叫に近くなる。

仕方なく呼んでやると露骨に甘えた声で走ってくる。しかしこれは自分の不満に気付いてくれたという安堵の声であり、甘えたいという訳ではない。要求が理解されたのではないとわかれば、また鳴きながらの徘徊が始まる。

飼い主の見当はずれに業を煮やしたらしく、近頃彼は小さな脳味噌を使うようになった。鳴きながら歩き回った後、次のような行動に出るのだ。

キッチンのカウンターに飛び乗ったら「飯よこせ」。

部屋のあちこちに体をこすりつけたら「構え」。

多分この解釈でいいのだろう。とりあえずは満足しているようだし。

また彼は、早朝に飼い主を起こす方法も編み出した。枕元に座り、前足でそっと.わたしの顔を触るのである。一見ほほえましいようであるが、実は微妙な感じで前足の爪が出ている。ニュアンスとしては、ナイフで頬をぴたぴた叩く感じ。うっすら目を開けると、「起きなきゃどうなるかわかってんだろ?」と言いたげな顔でこちらを見下ろしている。

やれやれである。

動物と話せればいいのに、とはよく聞くが、ちょっと待って。「言葉が通じる」ことと「意思疎通が図れる」はまるきり別の問題ではないだろうか。人間同士だってそうでしょう。同じ言葉を話しているのに、まったく話の通じない人って結構いるもの。

さっきまで鳴いていた猫がようやく布団の上で丸くなった。眠くて騒いでいたのか、それとも要求をあきらめたのか。聞いてみない事にはわかりません。

春と秋が好きだけど困るのは

その時期に着る服の事だ。冬はニットを重ねればいいし夏はTシャツ一枚でいける。でもこの中間の時期、暖かさと肌寒さが入り混じる時に着るものがないのである。

いくら冷えても季節としてはウールはどうもだし、ヒートテックも違うでしょう。綿素材の長袖シャツは、この温暖化のご時世ひと月も着れば暑くなって用なしだから、わざわざ買い足す気にもなれない。

結果半袖Tシャツに綿のカーディガンを羽織ってうすら寒い思いでいる。オシャレのセンスがある人ならそもそも悩むような事ではないだろうが。

「着たい服と似合う服は違う」という大前提にようやく気が付いた感のあるわたしである。好きなのはリネン素材のナチュラルテイスト(ちょっと恥ずかしい)だが、いざ着てみるとこれが。果てしなく寝間着。どこからみても寝間着。ワンマイルどころか玄関すら出られない雰囲気なのだ。

最近流行りの骨格診断でいえば完全な「ストレート」タイプで、じゃあそのアドバイスに従えばいいじゃねえかという事である。しかしまた問題があって、御存じのとおりこのタイプが似合うのは「上質素材とクラス感」だ。ばっちりメイクで挑まなければならんという。しかしわたしは化粧が嫌いだ。すっぴんで着られぬ服をおすすめされてどうしろというのだ。

ハリのある生地でシンプルなデザイン、という条件にしぼって服を選ぶと、最終的に無印かユニクロのメンズ服に辿りつく。性別不明年齢不詳、おじおばさんの一丁上がりである。

試着室の鏡の前で茫然とする。

まあ考えようによっては、今後新たに挑むべき課題ともいえるだろう。まずはいちパターンでもいい、似合う組み合わせを見つける。それから少しずつバリエーションを増やしていく。理論上は可能なはずだ。理論上は。

 

 

マーサ・グライムズ『桟橋で読書する女』

湖畔のレストランで働くシングルマザー、離れて暮らす大学生の息子、町の保安官。それぞれの視点から描かれる閉塞感と現実に対するもどかしさ。

女性ばかりを狙った連続殺人事件と犯人の独白が挿入されてはいるものの、ミステリ要素はほとんどない。物語を通じて描かれるのはさまざまな孤独の形だ。

作者はスコットランドヤードの警視と元貴族のちぐはぐコンビが活躍するパブシリーズで有名だが、初めてアメリカを舞台にしたこの小説の世界観の方がわたしにはしっくりきた。彼女の描くキャラクターの持つ独特の陰影は、イギリスの片田舎よりアメリカの地方都市に似合う気がする。

 

ミステリ小説が好きで、図書館に行けば必ず一、二冊は借りる。ほとんどはヨーロッパ圏の作品だ。アメリカのハードボイルド系は苦手である。怖いもの知らずな主人公が危険の中へ飛び込んでいくのは読んでいて心臓に悪い。

好きなのは地道な捜査で徐々に犯人像をあぶりだしていくもの。ヒーロー的探偵よりチームプレイの警察小説が好きだ。

フランスのミステリ作家フレッド・ヴァルガスによれば、ミステリとは「不安の解消を楽しむもの」。わたしが求めているのはまさにそれである。

事件が起こり、試行錯誤を繰り返しながら様々な考察がなされ、最後にすべては解決する。この丁寧なプロセスが、日常生活のストレスを穏やかに解消してくれるのだ。言うなればセラピーにも近いものがある。だからドキドキハラハラはいらないの。

そんなわたしの定番は、コリン・デクスターとP・D・ジェイムズ岡本綺堂の『半七捕物帖』である。最近は北欧ミステリにもはまっている。全般的に陰惨なイメージが強いんだけど、それを吹き飛ばすような魅力あふれる警察官が沢山登場するのですよ。

出かける前に玄関で

荷物のチェックをする。必ずといっていいほど何か忘れている。

買い物行くのに財布を忘れてゆかいな人になりそうだった(実際なった)事は多々あるし、図書館行くのに返す本が一冊足りなかったりする。完璧な買い物メモを作成し、テーブルに置き忘れる。

年取ると物忘れがひどくて困るわねえなどと自分をごまかしているが、子供の時だってしょっちゅう忘れていたのだ。体操着に給食着、ピアニカやリコーダー、新しい雑巾。給食で残したパンをランドセルから出し忘れてカビさせた経験は、ある程度の年齢の人ならおありだと思う。いわんや各種連絡プリントにおいてをや。

子供の頃の忘れ物は注意力散漫が原因の気がするが、年齢を重ねてからのそれはどうも脳味噌のリソース不足の感がある。ピッカピカの新品で生まれてから何十年も動き続けてきたシステムだからなあ。バグだって出るし、そもそもソフトのアップデート自体サポート外じゃないかしらん。

まあ仕方ないのである。型落ちだからといって新品に買い替えられる訳じゃない。まめにメンテナンスをしながらできるだけ長く使い続けるしかないのである。

もっと年を取ったら、たまにしか起動しなくなってあとは幸せなメモリの中で生きていくようになるんだろうなあ。それもまたいいんでないの。