黙読がいつから一般的になったか

寡聞にして知らないけれど、戦前は小説や新聞を音読する人が多かったとどこかで読んだ覚えがある。昔の映画や小説でも、新聞を手にした人の周りに集まってニュースを読みあげてもらう、なんて場面があるしね。

テレビがなく、ラジオもまだ一般的でなかった時代には、そうやって情報を広めるのが効率よかったんだろうし、まだ文語体が主流で語りに向いていたというのもあるだろう。

能を観に行くようになって、事前に謡の下調べをしていると、ほんの短い一節が大きな世界を表現している事に驚かされる。巧みに読み込まれた和歌の一部、枕詞に掛詞から、それぞれにつながる情景が自然と広がるようになっている。勿論、歌や詞の意味に通じていなければという前提はあるけどね。わかってくると断然面白いから挑戦する価値はある。

和歌や漢詩は読む以外にも詠じる楽しみもあるから、独特の抑揚とリズムを持ったものになったのだろう。それは後の浄瑠璃浪曲なんかの語り芸にも受け継がれている。

私の音読体験といえば授業で教科書を読まされるくらいだったけれど、小説を黙読する時も、目から入った文章は頭の中で声に変換される。だから作品を選ぶ基準は、自分好みの文体のリズムを持っているかだ。日本の古典に興味を持つようになって、手に取る本の選択肢が増えたのが嬉しい。まだ辞典と首っ引きの段階ですけどね。

最近はラジオで浪曲なんかも聞くようになった。年寄くさいかな。まあ別にいいや。

そういえば、父方の祖父母は戦前日本橋で洗い張り屋をやっていたのだが、当時はどの町内にも寄席が何軒もあったらしい。銭湯の帰りや夕食のあと、幼い父も祖父によく連れてってもらったとか。講談なんか続き物だから、ひょいと出かけてそれだけ聞いて帰ってくんだよ、と言っていた。木戸銭も安かったし、気軽な楽しみだったなあってさ。