「流山おおたかの森」駅の周辺はきっちり区画整理され、林立する高層マンションの間を広い道路がまっすぐ伸びている。新たなベッドタウンとして注目されているせいか、年々増える子供の数に学校の教室数が足りないらしい。
幼少期を都営団地で過ごしたわたしは、集合住宅にある種の思い入れがあるけれど、現在住んでいるマンションも含め、新しく建てられたものには全く興味がない。
最近竣工したばかりの近所の賃貸マンションは、エントランスを入るとコワーキングスペースがあって、作り付けの棚には洋書や観葉植物が、お洒落なインテリアとして飾られている。通りに面した部分は一面ガラス張りで、住人は自分がかっこよく仕事する姿を通る人にアピールできるのね・・・なんて意地の悪い見方をしてしまうのはそのせいだ。
雑誌などのレトロ建築特集には欠かせない、昭和三十年から四十年代の団地。わたしにとっての集合住宅とは、まさにそれに他ならない。味気ない灰白色の四角いコンクリートで造られた五階建て。建物の南側には、畳二畳分くらいに区画された各戸の庭が設けられていた。各階の廊下にはダストシュートの投入口があったけれど、悪臭や子供のいたずらが問題視されて使用禁止になっていた。
鉄製の玄関ドアを開けると狭い三和土があって、上がって左に三畳の部屋、右は六畳ほどの台所、正面の襖を開けると六畳の和室、その隣で台所の奥に四畳半の和室、という間取りだったはずだ。浴室は台所の隣だったが、当時の都営は建前上は「風呂ナシ」だったから、ドアの向うはコンクリートの床に排水口があるだけの空間だった。自分で風呂を取りつけるのはご自由に、当方は関知しませんという訳だ。大きな樽のような木製の風呂によじ登って入ったのを覚えている。
公営の住宅だからあれこれ規則はあったと思うのだが、風呂の例もあるように実際は見て見ぬふりが多かったのではないか。ベランダに大きな檻を置いてコリーを飼っていた住人もいたし、団地の前の道路に大きな作業台持ち出して仕事する畳屋さんも住んでいた。うちでもベランダに七輪出して魚焼いたりしてたなあ。
今ではほとんどが建て替えられてしまったし、わたしのいた団地も既に跡形もないが、当時の雰囲気を残した建物に出会う事があると、フェンスの外からつい覗き込んでしまう。建物入り口に並ぶ錆びた郵便受けや鉄製の窓枠が見えたりすると訳もなく嬉しくなる。
もしかしたら本当に思い入れがあるのは、建物よりもそこからつながる時代の記憶なのかもしれない。