『モンティ・パイソン』の「殺人ジョーク」は

有名だけど、あれは哲学者クリュシッポスの死因が笑い過ぎという事を元ネタにしているんだろうか。多分違うけど、そんな事を思ったのは、今『ストア派の哲人たち(國方栄二著)』を読んでいるからである。酔っぱらったロバがイチジク食おうとするのがよっぽどおかしかったらしい。死ぬまで笑うかね。

マルクス・アウレリウスの『自省録』が面白かったので、彼の傾倒していたストア派哲学に興味を持った。「清貧に生きる」とか「この世は無常である」とか、何だか仏教的じゃありませんか。そしてストア派の哲学者は自死を選ぶ者が多かったらしい。この世に未練を残さず一日も早い成仏を願う僧侶のようだ。まだ読みかけなので軽軽に結論は出せないけれど、仏教もある種の哲学であると考えれば、色々関連が見つかるかもしれない。

日本人にとって経文は順に音読みだから、それこそ意味も分からずお題目として唱えている。たまに法事で「ご一緒に」と渡される冊子を開いて、おぼつかない漢文の読み方を試してみると、何となく意味がわかったりする。ああこういう事言ってるのか、となると急に面白く感じられたりして、退屈な法事もなかなか楽しめる場となります。ただし足が痺れる事には変わりはない。

町を離れ甕の中に住んだというディオゲネスストア派ではないが)と、人里離れた場所に粗末な庵を結んだ出家遁世の聖は、共に世を捨てるという点で似ている。何故だか心惹かれてしまうのですね。わたし自身は俗人だしこの世に未練はありまくるけど、こう、あまり心にノイズを入れずに暮らしたいというか、多くは望まず満ち足りていたいというか。ともかくも先を読もうと思います。

雨ニモ負ケズ」の宮沢賢治も、そういえば熱心な法華経信者でありましたね。